あーとこみにてぃー@藤岡宣麗

マルチクリエイターの藤岡宣麗による作品発表です。皆様に楽しんでいただけるような投稿にしていきたいと思ってます。

bungaku museum 1 村上龍

村上龍希望の国エクソダス」(文春文庫)

 

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

 

 

 この作品に書かれている内容というものは決して安易な考えではない。中学生たちが反乱を起こしてから、村上氏は小説の世界を通し、教育の腐敗を皮切りに、教育や高齢者等の社会問題、グローバリズムによる治安・経済崩壊という副作用、新エネルギー導入問題について、多くの提言を投げかけている。中東に映る「ナマムギ」という元日本人少年の姿、彼が日本には希望がないことに共感した多くの中学生たちは、「決まり」と言って精神的にあぐらをかいていた教師どもに反乱を起こす。これにより、中学生たちの考えとして、児童にはクラスや教科書を選ぶ権利があるというのに対し、教師たちは認めようとはしなかった。この認めなかったというのは、彼ら教育関係者としては変革を嫌うほどの疎さを持った怠け者であるかを露呈しているも同然である。子供は教師の言うことを聞くだけでいいんだ、という教師がいまだこの社会にいるとすれば、彼は子供に対し責任のある教育を施すのかというと、答えはノーである。今日の教師はまともに生徒たちに教育する姿勢がいまだにない。反面、ゆとり教育反日教育を徹底する姿勢というものにはなぜか真剣なのである。いじめ問題や不登校児童の対応には教師たちや校長だけでなく、教育委員会も徹底的に取り組もうとしないのが現状である。少し上を行けば、ひきこもりの人もいるのに、彼ら教育者たちは法律を盾に何も取り組まない。ナマムギの少年に惹かれた子供たちが反乱の後、ASUNAROというグループの立ち上げで会社設立を経て、力を得る。リーダー的役割の大きいポンちゃんは、中学校という存在意義を純粋に聞くのに、国会議員は無能となり、その現場を世界中が注目し、戦後教育を見直さない彼ら国会議員やマスコミ、教育委員会は世界中の笑いものとなる。笑いものになった彼らは子供お前で下手なメンツを出そうとするが、出すたびに何か空しさを感じさせる。一方で、ASUNAROの子供たちははっきりとした立場で、理論的に独自の国家観を持ったような立場で主張する。いかに中学校という機関、中学を管轄する教育委員会がおろかなのかが露呈されているはずである。いじめや不登校を真剣に取り組まない教育委員会の無駄に抱える中学校制度は必要ないというのも無理もない。

 小生として、中学のカリキュラムは小学校で、中学では高校の国語と数学と職業訓練でいい。後のカリキュラムは選択制で、ちなみに高等学校を廃止し、当然無償化の必要なんかないのである。別のところでは、元セゾンの堤清二氏が三浦展氏との対談で、雇用に関しては専門学校を無償化すべきであるという主張もしている。別の話になってしまうが、あえて、参考として挙げさせていただく。同氏の主張する作品の重要部分というのは、現行の教育体制は破たんしているという所である。6334制は教育促進にそぐわない、教育委員会は改革する気を持っていない上に改革するものを排除するという最悪な組織であるというものである。同氏の考えとすれば、児童たちが、「のんき」な大人たちの管轄する学校に反乱することで、戦後主義に腐敗した大人たちに代わり、あたらしい国づくりが期待できるというものである。現行の腐敗した教育者たちを強制退場させること、専門中学校の設立や未成年者の企業経営が真新しい国ができるかが、大きなカギとなる。

 この作品に書かれている内容というものは決して安易な考えではない。中学生たちが反乱を起こしてから、村上氏は小説の世界を通し、教育の腐敗を皮切りに、教育や高齢者等の社会問題、グローバリズムによる治安・経済崩壊という副作用、新エネルギー導入問題について、多くの提言を投げかけている。中東に映る「ナマムギ」という元日本人少年の姿、彼が日本には希望がないことに共感した多くの中学生たちは、「決まり」と言って精神的にあぐらをかいていた教師どもに観覧を起こす。これにより、中学生たちの考えとして、児童にはクラスや教科書を選ぶ権利があるというのに対し、教師たちは認めようとはしなかった。この認めなかったというのは、彼ら教育関係者としては変革を嫌うほどの疎さを持った怠け者であるかを露呈しているも同然である。子供は教師の言うことを聞くだけでいいんだ、という教師がいまだこの社会にいるとすれば、彼は子供に対し責任のある教育を施すのかというと、答えはノーである。今日の教師はまともに生徒たちに教育する姿勢がいまだにない。反面、ゆとり教育反日教育を徹底する姿勢というものにはなぜか真剣なのである。いじめ問題や不登校児童の対応には教師たちや校長だけでなく、教育委員会も徹底的に取り組もうとしないのが現状である。少し上を行けば、ひきこもりの人もいるのに、彼ら教育者たちは法律を盾に何も取り組まない。ナマムギの少年に惹かれた子供たちが反乱の後、ASUNAROというグループの立ち上げで会社設立を経て、力を得る。リーダー的役割の大きいポンちゃんは、中学校という存在意義を純粋に聞くのに、国会議員は無能となり、その現場を世界中が注目し、戦後教育を見直さない彼ら国会議員やマスコミ、教育委員会は世界中の笑いものとなる。笑いものになった彼らは子供お前で下手なメンツを出そうとするが、出すたびに何か空しさを感じさせる。一方で、ASUNAROの子供たちははっきりとした立場で、理論的に独自の国家観を持ったような立場で主張する。いかに中学校という機関、中学を管轄する教育委員会がおろかなのかが露呈されているはずである。いじめや不登校を真剣に取り組まない教育委員会の無駄に抱える中学校制度は必要ないというのも無理もない。

 小生として、中学のカリキュラムは小学校で、中学では高校の国語と数学と職業訓練でいい。後のカリキュラムは選択制で、ちなみに高等学校を廃止し、当然無償化の必要なんかないのである。別のところでは、元セゾンの堤清二氏が三浦展氏との対談で、雇用に関しては専門学校を無償化すべきであるという主張もしている。別の話になってしまうが、あえて、参考として挙げさせていただく。同氏の主張する作品の重要部分というのは、現行の教育体制は破たんしているという所である。6334制は教育促進にそぐわない、教育委員会は改革する気を持っていない上に改革するものを排除するという最悪な組織であるというものである。同氏の考えとすれば、児童たちが、「のんき」な大人たちの管轄する学校に反乱することで、戦後主義に腐敗した大人たちに代わり、あたらしい国づくりが期待できるというものである。現行の腐敗した教育者たちを強制退場させること、専門中学校の設立や未成年者の企業経営が真新しい国ができるかが、大きなカギとなる。

 高齢化に関しては、ここで述べているUBASUTEというものがある。老人ホームの機能を持っているもの、高齢者の財産を没収させ環境事業に回すという、半ば厳しいことを挙げているが、小生とすれば、この考えは一応賛成であるもの、高齢者には会社や学校、NPO法人を立ち上げ、経営者あるいは教育者となって、若者を育成してもらう役割を持っていただいたほうが望ましいと考える。介護老人施設はあっていいが、少なくとも財産を丸抱えしたまま好きなだけ無駄な説教を垂れ流し、自己責任論を主張する人間はいてほしくない。財産があれば、会社を興すことが出来るはずであり、他人に説教したければ部下を作って活かせばいい。雇用問題の僅かな手掛かりを起こすことが出来る。新規の都市を立ち上げ、独自の通貨を作ることを述べている。確かにここまで行くと、まるでイタリアの中にもう一つ国があるというイメージを思わせられる。実際には、バチカン市国という国が存在するが。これを既存の都市に用いることはできない面は非常に大きいといえる。

 戦後日本においてたしかに物品やサービス等は日本中に普及した。だが、この国に全くないのが、「希望」であり、「危機意識」である。同氏は小説という分野において大きな警告を主張するのも最もといえる。この二つの欠落を日本という国家はどこで失ったのか。もし、戦後から二つともなく、あるいは物品のみの固執による希望であれば、外国に弄ばれつつ、人材をお粗末に扱いながら続いてきたこの国の存在は非常にみじめである。これでは後を絶たない日本人の自殺者増加や海外流出を止めることが出来ない。挙句の果てに、ユニクロの傘下するファーストリテーリングの柳井会長はあと三年でこの国は破たんすると主張する。この発言は経済人の本音と言っても過言でないし、この国の破たん材料は数えきれない位の危険な状態であるというのも無理もない。三年ならましかもしれないが、いつ国家破たんしてもおかしくはない。その時こそ、本当に希望の国へのエクソダスが始まるかもしれない。とはいえ、日本人は別の意味でおとなしすぎるのがいいのか悪いのか、一概には言えないが。我々としては、個々の持つ「希望」へのエクソダスを考えなくてはならない所まで来ているのは事実である。このエクソダスという手段が、どんなものであるかは個人の考え次第ではあるが、少なくとも、事態は目の前に来ているといっても過言ではない。エクソダスの先には、我々にとっての明るい所であるということを。

人物・おれ 中村君 ポンちゃん/EQSODUS FOR THE HOPE LAND